
Geo room “Discover”で語られた夜
島前カルデラを望むEntôの1階。ジオラウンジの奥にあるGeo room “Discover” は、
島の成り立ちを映し出す白いオブジェクトが並ぶ、「はじまりの場」として旅人を迎え入れ、送り出す場所です。
この場所で夏の夜に開かれたトークナイト。
ゲストは、ヒマラヤの高峰から日本の半島や島々まで、世界を歩き続けてきた写真家・石川直樹さんでした。
この日、石川さんの話を待ち望む期待と未知の景色に触れる高揚感が混ざり合い、語られた旅の断片は、会場に集った人それぞれの記憶と重なり、会場は特有の熱気に包まれていました。
その熱は、静かな余韻となって一人ひとりの心に残るものでした。
石川直樹
1977年、東京生まれ。東京芸術大学大学院美術研究科博士後期課程修了。人類学、民俗学などの領域に関心を持ち、辺境から都市まであらゆる場所を旅しながら、作品を発表し続けている。2008年『NEW DIMENSION』『POLAR』で日本写真協会賞新人賞、講談社出版文化賞、2011年『CORONA』で土門拳賞、2020年『EVEREST』『まれびと』で日本写真協会賞作家賞を受賞。2023年東川賞特別作家賞。著書に『最後の冒険家』(開高健ノンフィクション賞)ほか多数。2024年10月、ヒマラヤの8000m峰の全14座の登頂に成功。
石川直樹
1977年、東京生まれ。東京芸術大学大学院美術研究科博士後期課程修了。人類学、民俗学などの領域に関心を持ち、辺境から都市まであらゆる場所を旅しながら、作品を発表し続けている。2008年『NEW DIMENSION』『POLAR』で日本写真協会賞新人賞、講談社出版文化賞、2011年『CORONA』で土門拳賞、2020年『EVEREST』『まれびと』で日本写真協会賞作家賞を受賞。2023年東川賞特別作家賞。著書に『最後の冒険家』(開高健ノンフィクション賞)ほか多数。2024年10月、ヒマラヤの8000m峰の全14座の登頂に成功。
垂直の旅 ー 山へ向かう、その縁に導かれて
石川さんは1977年生まれ。17歳で初めてインド・ネパールを旅し、「いつかヒマラヤの山々に登ってみたい」と憧れを抱いた少年でした。
やがて北極から南極への縦断に参加し、2001年から23年をかけてヒマラヤ14座をすべて登頂しました。
「その頃は14座すべてに登ろうなんて全く考えていませんでした。でも山に行くたびにたくさん友達ができて。2か月の遠征でお互いの強いところも弱いところも全部さらけ出して登るので、すごく仲良くなる。まるで親友のようになるんです」
遠征を重ねるなかでシェルパの仲間が増え、毎年会いに行きたいと思うようになった。
そうした縁もあって新しい山に挑むようになり、まだ足を踏み入れたことのなかったパキスタンのK2にも誘われます。
「『一緒に行かないか』って声をかけてもらって。行ったことのない山だったし、行ってみようかなという気持ちになって。2015年にK2に行くことになりました」
強い意志を持って挑んだというより、人とのつながりに背中を押されて山へ向かうことが多い、と語ります。そこで出会った仲間と深い絆を結ぶ一方、再び会うことのない別れもあった。
言葉の端々には、出会いと別れが交錯する山の時間がにじんでいました。
証拠ではなく、時間を写す
「登山家が撮るのは登頂の証明。でも僕は麓からそのプロセス全部を撮る」
山でカメラを構える登山家は多くいます。
けれど、その一枚は登頂の証拠にすぎません。
石川さんが使い続けているのはフィルムカメラです。
「1本10枚しか撮れないやつをずっと使っているんです。だから消せないし、1枚1枚が残る」
デジタルでは得られない空気感や、その瞬間にしかない光や匂いが焼き付けられる。
石川さんは学生時代に文化人類学や民族学を学んできた背景もあり、
風景だけでなく、シェルパの文化や暮らしとともに過ごした時間までも写真に残してきました。
「写真集という形で残せば、自分が死んだあとでも、
誰かが手に取って何かを受け取ってくれるんじゃないかと思って」
結果ではなく、過程に宿る時間をどう残すか。
その姿勢こそが石川直樹さんそのもののように思えました。
水平の旅 ー 島と半島をめぐる視点
石川さんの旅は、山にとどまりません。
「今年はアラスカにも行きましたし、日本では島を巡ってきました」
背景には「日本列島を島の連なりとして捉え直す」というテーマがあります。
島々を訪ね歩くうちに、関心は半島へも広がっていったといいます。
「陸路が交通網の主流になっている現代では、ぼくがよく通っている知床半島や能登半島などの半島先端部は、ある意味、とても遠い場所になってしまいました」
しかし、陸から見れば“行き止まり”に見える島や半島も、視点を変えればまったく違う姿を持っています。
かつて船が主要な移動手段だった時代、こうした場所こそ人や物が集まる“入り口”でした。
日本海を往来した北前船は、米や昆布だけでなく、
道具や芸能、信仰までも運び、各地の文化を結びつけました。
島や半島は、海から訪れる人々を受け入れる窓口であり、
交流圏の結節点だったのです。隠岐もまたその例外ではなく、
かつて北前船が行き交い、多様な人や物が流れ込んだ地でした。
行き止まりの先にこそ、大陸や他地域へ開かれた扉があり、
文化が交わり、新しい価値が芽生えていた。石川さんの語りからは、
そんな歴史の景色が浮かび上がってきました。
そして石川さんは、日本海を中心に反転させた「逆地図」を示しながら、
多様な交流圏の姿を語ります。
「日本海は大きな湖のようで、大陸や朝鮮半島との交流があった。その視点で見れば、隠岐諸島は日本海の真ん中付近にあって、かつてはたくさんのものがここに入ってきていた」
訪ねて、確かめること
山でも、島や半島でも、石川さんが一貫して語るのは「自分の体で世界を知る」という姿勢でした。
「スマホで検索すれば何でも知った気になる。でも、自分の体で世界を知っていくことをやめられない」
「知ったつもりにならずに、実際に見て、体験して、言葉を紡ぎたい」
世界を地図や画面上でなぞるのではなく、足を運んで確かめること。
世界を知るとは、自分の体で確かめること。
石川さんの言葉は、そのままEntôのまなざしと重なります。
島根半島の先にある隠岐は、大陸との交流が行き交った「入口」であり、今も世界とつながる場所です。

― text ―
浅川友里江
東京生まれ、山梨育ち。学生時代から写真や映像、音楽やサブカルに夢中になり、デザインや執筆、ブランディングの仕事へ。京都ではホテル開業に携わり、マーケティングを担当しながらウェルカムDJまで。趣味と仕事が表裏一体で、遊びや表現活動がそのまま仕事につながる時代を過ごした。
2021年にEntôを訪れ、2024年に海士町へ移住。現在はEntôのマーケティングを担っている。
島では猫とシェアハウスで暮らし、地域のグラウンドゴルフに参加したり、友人と和歌短歌を愉しむのも日常に。これからは音楽や食の楽しみも広げながら、遊びと仕事を行き来しつつ"島の余白"を彩っていきたい。
― photo ―
樗木新
1984年、福岡県糸島市生まれ。大学時代に写真を撮り始め、アシスタントを経て2012年よりフォトグラファーとして雑誌や広告でポートレイトを中心に撮影する。2022年に海士町に移住し、現在は東京と二拠点で活動中。月の半分を海士町で過ごし、2人の子どもと妻とどっぷり島暮らしを楽しみ、島の風景を写真に収めている。
― editing ―
小松崎 拓郎
1991年、茨城県龍ケ崎市生まれ。島根県の石見銀山遺跡とその文化的景観に抱かれる町・大森町で妻と二羽の鶏、愛犬と共に暮らしている編集者。エドゥカーレ社代表。会社のファンを増やすオンラインマーケティング支援サービス「カンパニーエディター」、自然のために働く人を増やし、自然を愛する人の輪を広げていくプロジェクトデータベース「GOOD NATURE COMPANY 100」を運営。