遠島の旅と内なる旅のむこうにあるもの
人には自然治癒力が備わっている。身体の不調や傷を自らの力で治癒、再生していく力。ただ、日々のストレスや口にするものなどの影響で、本来持つその力を発揮できなくなることもある。日々、自分の身体の声に耳を傾け、整え、その力を呼び戻すこと。それは、わたしにとっての隠岐を旅する時の感覚によく似ている。自分をまっさらにリセットし、自分を取り戻すための時間と場所。旅先で刺激を求めて、とにかく取り込んで、それから無理やり何かを生み出そうとするのではなく、余計なものを手放して、丁寧に取り除いて、整えて。自分がもともと持っていた力を取り戻し、また前へ進んでいく、そのための旅。 もちろん、旅の愉しみ方も目的も人によって様々だ。わたしも目的によって、行く場所も誰と行くのかも異なる。こんなふうにわたしが自分を整えるためには、それなりの時間と距離、異日常感が必要だ。だから、その旅先はどこでもいいわけではない。わたしにとってそういった特別で大切な場所は片手で数えるほどしかない。でもむしろ、そういうものだろうとも思う。 「マリンポートホテル海士」あらため「Entô」。 蒼く穏やかなカルデラの内海を臨みたたずむそのホテルで、行くたびにわたしはまっさらな自分に出会う。そんな「Entô」は、この夏生まれ変わる。より研ぎ澄まされ必要なものだけをたずさえて、旅人や地域に新たな価値や価値観を与える場所として、地域とともに大きな一歩を踏み出そうとしている。
隠岐諸島のなかの「Entô」
「Entô」のある隠岐諸島は、ユネスコが認定する「ユネスコ世界ジオパーク」の認定エリアである。その活動目的・理念にもとづき、地域資源の保全にとどまらず活用することを通じて、持続可能な経済活動や文化活動により地域を活性化させ、次代へ繋いでいくための様々な取り組みが島全体で動き始めている。それは、ホテルのある海士町だけでなく隠岐諸島の未来を見据える確かな歩みと静かに歩幅を合わせるように、その大きな地域構想のなかで大切な役割を担おうとしているのが、この「Entô」だ。
宿泊施設である「Entô」が、自ら選びたずさえた機能のひとつにジオパークにおける「拠点施設」という顔がある。隠岐の島町、海士町、西ノ島町、知夫村。それぞれの地域には、個性豊かな魅力を放つ大地の遺産や歴史・文化があり、それらは各地域の資料館をはじめ図書館、空港やフェリーターミナルなどといった展示施設で触れることができる。これらの施設は各地域に複数点在している。
加えて隠岐諸島では「中核施設・拠点施設」を設けることで、展示・案内だけでなく、隠岐への来訪者が最初に島の魅力に触れるタッチポイントとして、同時に地元の人々が自らの地域の魅力を再発見する、さらには島内外の人と人とが、それら大地の遺産を通じて交流する場として機能させようとしている。そのため隠岐では4島の各拠点施設が互いに協働し、「面」でそれらの効果を発揮できるよう運営整備を進めている。
具体的には、4島のなかで最も利用者の多い隠岐の島町の西郷港に「中核施設」を、西の島町の別府港、知夫村の来居港に「拠点施設」を設置。いずれも港近くのフェリーターミナルや関連ビル内に整備されている。そして、海士町では菱浦港近くのホテル「Entô」が、拠点施設の役割をになう。
ホテルの中にジオの要素を内包させる。もしくは、ジオの世界観にホテルが溶け込んでいる。そこには、それらを明確に分ける境界線はない。「Entô」のコンセプトのとおり、「Entô」そのもの自体が、なんともシームレスな存在であるように思う。
ちなみに、各国地域のユネスコ世界ジオパークのなかでも、このような施設は世界的にも珍しいという。「ジオ×観光」の相性はもちろんのこと、「ジオツーリズム」で地域に新しい息吹を与えようとしている隠岐らしい発想が、そこからも感じられる。
遠島への旅と内なる旅
シームレスなのは、なにも地域との関係性だけではない。訪れた人と島との間の境界も、ここでは解けて混ざり合い、良い意味で曖昧になっていく。自分をリセットする時間と場所。この曖昧な境界がそれを手助けしてくれる。
隠岐諸島・遠島への旅は、時間と距離をともなう旅でもある。遠く飛行機や船を乗り継いで、ここへ辿り着くまでの時間と距離は、これから島で過ごすために必要な下地のような時間であるように感じる。そうして島に着く頃、すっかり凪いだ私の心のなかに、五感を通じて色々なものが入ってくる。
穏やかで蒼い海、朝靄のなか港へつづくなだらかな坂道、潮騒の調べ、
島のあちこちに点在する古の人々の息づかい、大地の鼓動
そういうものたちに身を委ねていると、島と自分が自然と繋がっていく。浅かった呼吸は気がつくと深くなっている。眉間がゆるみ、五感がひらかれて、感覚が研ぎ澄まされていく。それによって、ぎゅっと握りしめていた不要なものを手放し、余計な力が抜けていく。
そこからは、自己との対話、内なる旅のはじまり。島のあちこちで触れるものは、自分をひらくための鍵なのかも知れない。その出発点であり帰着点となっていくのが「Entô」だ。深く遠い内なる旅へ安心して旅立ち、また戻れる空間と時間を「Entô」が与えてくれる。内なる旅はひとり旅。「地球にぽつん」という言葉のとおり、新しく生まれ変わった空間では、眼前に広がる雄大なジオスケープもきっとその手助けをしてくれるに違いない。
遠く深いふたつの旅から戻ってくる頃、まっさらな自分に会える。必要なものだけをその手にたずさえて。そして、わたしはまた前へ進む。
旅にまつわる、こんな言葉がある。
“旅とはどこかに辿り着くことが重要なのではない
(英国の詩人 T・Sエリオット)”
“どんな遠くに旅をしても、
その距離だけ内面へも旅をしなければ、
どこへも行きつくことはできない
(米国の女性画家 リリアン・スミス)”
隠岐諸島への旅は、そんな言葉がしっくりくる。
自分にとって日常生活のなかで、自分をリセットするサイクルをつくりだすことはとても難しい。ひとつでもふたつでも、きっとこんな時代だからこそ、人にはそういう時間と場所が必要なのではないだろうか。旅は間違いなくそれを与えてくれる。隠岐諸島で過ごす時間が、ますます待ち遠しく、恋しい。