隠岐ユネスコ世界ジオパークとは、地球が育んだ、はじまりの島 – from staff 【コラム】

24.10.31

ジオ 海士町 コラム

岡本 華歩

隠岐ユネスコ世界ジオパークとは、地球が育んだ、はじまりの島 – from staff 【コラム】

私達の記憶を彩る、いつの日か島を訪れてくれたあなたへ。
そしてこれから出会うかもしれない旅人へ。

ここはなにもないけれど、なにかある遠島。
あの小泉八雲も、こんな言葉を残している。

“ 私は隠岐で、強い力でその影響を遠くまで及ぼしている文明から逃れているという喜びを味わい、人間の生存にとって、あらゆる人工の及ぶ範囲を越えて、自己を知る喜びを知ったのである。”

その予期せぬ出逢いは「面白い」の一言では収められない、かけがえのないもの。これは、島で起こる《なにか》を記した置き手紙。

・   ・   ・

 

 

隠岐へ訪れた人々は、日本海に浮かぶこの島をどう語るのだろうか。

美しくも厳しい自然が織りなす、むき出しの地球。
文明の影響を受けない、遥か遠い地に広がる静寂。
受け継がれていく、ぬくもりが宿る暮らし。

きっとさまざまな言葉で「隠岐」が形容されるのだろう。

そのひとつとして、こう表してみた。


隠岐は「はじまりの島」である。




「世界自然遺産」ではなく、「世界ジオパーク」とは何だろう。
両者ともユネスコの自然にまつわるプログラムであるのに、なぜ区別するのか不思議ではないだろうか。

その大きな違いは、保護方法にある。

世界遺産は、厳格な保全がなされ人為的な介入は制限される。人類にとって価値ある遺産を後世に残すことを最大の目的としているからだ。

一方、ジオパークは、保護と活用のバランスを取ることを目指している。大地に残る地球の物語に触れ自然保全の意識を育むこと、そして継承していくために地域社会を発展させるという役割を担っている。

つまり、持続可能な開発を求められているのだ。

Entôもそのひとつ。世界で初めての「泊まれるジオパーク拠点」として誕生した。

まるで目の前の景色に溶け込んでしまいそうな客室での滞在は、私たちが地球上に生きる一員であることを静かに思い出させてくれる。

感覚的な体験にとどまらず、ジオパークの中心的な拠点としての機能も持ち合わせている。

Geo Loungeと名付けられた空間は、旅人と島民が自由に集う場所だ。展示室では地球の成り立ちや隠岐島前のジオサイトが紹介されている。解説員によるツアーEntô Walkは毎日開催され、隠岐の不思議を解き明かす鍵を受け取れる。

この地を訪れる人にとっては旅の入口となり、ここで暮らす人にとっては魅力を再発見するきっかけとなるかもしれない。

Entôは、隠岐諸島への観光の誘致を進めながらも、誰もを受け入れる学びや交流の場でもあるのだ。

この構想を実現するまでには紆余曲折があった。

幾つもの試練を乗り越えられたのは、Entôのある海士町に挑戦を受け入れる風土があるからだろう。

 

挑戦を歓迎する海士町

その雰囲気を醸成しているのは、島に移り住んできた多くの若者たちの存在が考えられる。

「どうしてこんなにも若い人が多いのですか?」

観光で訪れた方から、この質問をよく受ける。

離島への移住者は増えているが、全国的に見れば30代から40代といった次のライフステージに歩み始める世代が目立つ。子育てを機に田舎へ移り住む家族や、仕事で実力がついた後に新天地として島を選ぶ姿は想像がつくだろう。

しかし、ここ海士町には、何かを掴みたいと願う若者が集まってくる。

背景には「大人の島留学」という行政と民間が手を組んだプログラムがある。全国の20代を対象に、1年間、ひとりの島民として地域に根ざし、島の仕事を体験する制度だ。

彼らは自らの可能性を探り、事業所での業務だけでなく、イベントを企画したり、地域活動にも積極的に参加したりしている。その活力が広がり、この島ではどこかで誰かが何かを始めている。

そして、その恩恵は筆者である私自身にも届いている。海士町に移住してから新しく始めたことがいくつもある。

たとえば、島根県の無形民俗文化財「隠岐島前神楽」を継承する同好会に所属した。ふらっと見学しに行っただけなのに、いつの間にか奏楽担当として祭りに出演していた。

担い手不足も相まって、移住して間もないのにもかかわらず、当たり前のようにチャンスを与えてくれる。

それまでの生活では、プロが作ったモノやサービスを享受するのが当たり前だった。自分より得意な人がいる環境では、新しいことを始めるまでに勇気が必要だった。しかし、隠岐では荒削りでもいいから一歩踏み出そうという気持ちになれるのだ。

指先から伝わってくるのは、地続きの文化と歴史

世界自然遺産と大きく異なる性質がもう一つある。ジオパークの対象は自然そのものだけでなく、そこで育まれてきた文化や歴史も含まれるということだ。

隠岐が来訪者を受け入れてきたのは、決して今に始まったことではない。

江戸時代には北前船という日本海を横断する商船の出入りがあった。各地の特産物と文化を運ぶ動脈はなぜ隠岐を経由したのか。それは、隠岐諸島が対馬海流の上に位置するからだ。さらに遡ること3万年、縄文人が隠岐の良質な黒曜石を新潟や四国まで運んでいたことがわかっている。

古くからさまざまな交流が繰り広げられ、外から新しい風を受け入れる素地が少しずつ養われていったのだ。

「なぜ」を辿れば、遥か昔の人々の営みや、その背後にある大地の成り立ちが浮かび上がる。今まで単なる情報にすぎなかった歴史上の出来事が、私たちの生きている世界と地続きであるという感触が指先に伝わってくる。

この地で過ごす時間は、今を生きる私たちが確かに未来へのバトンを繋いでいることを感じさせてくれるのだ。この味わいこそが隠岐がジオパークである所以ではないだろうか。

隠岐諸島がジオパークでよかった。

そう感じるのは、この島の在り方とジオパークの理念が響き合っているからだろう。
地球の記憶が刻まれた大地の上で、そこに生きる人々が織りなす営み。

この島は、守るだけではなく、挑戦と共に発展していく場所。そして、変化を受け入れ、未来に向かう出発点となる「はじまりの島」として、確かにその足跡を刻み続けている。

 

・   ・   ・

 

 

― Text/Photo ―
Writer:岡本 華歩(おかもと かほ)
三重県出身。都心での生活を謳歌した後、直感に従い離島や田舎を転々とする1年間を過ごす。2024年早春、Entôのコンセプトに惹かれ海士町へ。面接を終えたその日から移住し、現在はフロントスタッフとしてゲストを出迎える。最近のテーマは「ただ暮らすために生きる」。自炊をはじめ、釣りに草刈りと、日常に流れる時間を愛おしく味わっている。

Photographer:佐藤 奈菜(さとう なな)
北海道札幌市出身。アメリカで数年を過ごし、代表の青山と同郷であることなどからEntôや海士町に興味を抱き、帰国後2022年に移住。暮らしのなかで撮る、ふとした写真と言葉のセンスで周囲を魅了する。現在は主にマーケティング事業を担当。葛藤や悩み、楽しいことやチャレンジを惜しみなく全身で受け止め生きる、情緒的で柔軟な姿に影響される人も多い。

Category :