
日本海に浮かぶ、小さな宝石のような島、隠岐。
ここには、自然といのちのリズムが調和しながら、そっと踊るように流れている。
この島を訪れたのは、オーストラリア出身のアーティストで写真家のサラ・ジェシカ・マリー・バーンズ。彼女のまなざしを通して切り取られた隠岐の風景には、どこか懐かしくて、言葉にならない情感が宿っている。
サラの作品は、静かでセンチメンタルな視点を持ちながら、建築と自然をひとつの詩のように織り上げていく。その写真には、ただの「風景」ではなく、時間がそっと染み込んだ「物語」がある。
レンズの先に映し出されたのは、素朴で静かな日常の断片。
けれど、それは見るたびに、新しい感情を呼び起こす。まるで、一枚一枚が芸術作品そのもののように。
彼女の写真を通して、私たちは気づく。
隠岐という島が、静けさとぬくもりをまといながら、確かにそこに在ることを。
sarah jessica marie burns
オーストラリア人のフォトグラファー・ビデオグラファー
モロッコでゆっくりと暮らしながら、あらゆる形の映像詩と世界中の生活のエッセンスを撮影している。
https://www.maroccancolours.com/
sarah jessica marie burns
オーストラリア人のフォトグラファー・ビデオグラファー
モロッコでゆっくりと暮らしながら、あらゆる形の映像詩と世界中の生活のエッセンスを撮影している。
https://www.maroccancolours.com/
なぜ隠岐の島に?
私はいつも、遠く離れた場所──とくに島々に心を惹かれてきた。
静けさに包まれ、自然が主役となり、人生が少しだけシンプルに思える場所。
現代のざわめきが遠のき、もっと深い何かがそっと目を覚ますような場所。
私はそんな場所にいるとき、いちばん心が落ち着く。
隠岐諸島にたどり着いたとき、まるで夢の中にいるような心地がした。
日本海を横断して、時の流れから切り離されたような、遥かな島々へと向かう航海。
雪が海に舞い降り、空と大地のあいだで静かに踊っていた。
人里離れたその島は、地に足のついた暮らしが息づき、美しさがそこかしこに満ちていた。
「ああ、自分は今、ここにいるべきなんだ」
そんな感覚が、確かにあった。

フェリーの旅は、これまでに経験したどの移動とも違っていた。
船内には、畳の香りが漂う昔ながらの和室があり、そこには深い静けさが満ちていた。
波が船体を優しく撫でるたびに、身体ごと揺られながら、心はゆっくりとほどけていく。まるで、動きのある瞑想の中にいるようだった。
私は畳の上にそっと横たわり、窓の向こうを過ぎてゆく景色をぼんやりと眺める。隣には、私と同じように旅の静けさを楽しんでいる人たちがいた。
言葉は交わさなくても、たしかにそこには、静けさを分かち合う空気があった。
本当の休息というのは、案外こうした何もない、シンプルな場所にあるのかもしれない。そう思い出させてくれるような時間だった。
そんな旅路の果てに、私たちはEntôにたどり着いた。
直感に導かれ、ゆっくりとした時間を求めて。

滞在中の過ごし方、体験したことは?
隠岐諸島の静けさと、Entôのやわらかなもてなしに包まれて、私たちはただ、敬うような気持ちでその時間を過ごしていた。
雪は音もなく海へと流れ込み、空と水の境界がぼんやりと滲んでいく。
窓の向こうでは、ひとひらずつ舞い降りる雪が、静かに海へと溶けていった。



一つひとつの瞬間に、どこか意図が込められているように感じた。
日本の伝統的な朝食は、まるで静かな儀式のようだった。
窓の外を、一艘の小舟で漁師が通り過ぎていく。
その姿を眺めながら、私は湯気の立つコーヒーを手に、そこにあった温もりとさりげない気遣いを受け取った。
ここでの暮らしのリズムは、決して急かされることがない。むしろ、どこか本能に従っているような、自然な流れがある。
雪の積もる細道を一緒に歩きながら、私たちは、食事と同じくらい心を満たしてくれる、静かでやさしい会話を交わしていた。

静けさに包まれた神社に足を踏み入れると、そこには何世紀にもわたる祈りと献身の気配が、微かに響いていた。
その日、社務所にいた宮司さんが特別にお茶を点ててくれた。まったくの偶然だったが、それはちょうどお祝いの日でもあった。
境内には、いつも通り人々が集い、顔を合わせ、言葉を交わし、喜びを分かち合っていた。
あたりまえのようでいて、かけがえのない、つながりの風景。
その中にそっと混ざりながら、私は「祝う」という行為の本当のかたちを見たような気がした。

伝統的な手しごとに息づく島の精神に触れたくて、船をつくる工房を訪ねた。また別の場所では、地元の陶芸家が、土で描くようにして柔らかな模様をかたちにしていた。まるで、テキスタイルのような粘土細工。言葉ではなく、手しごとや所作、ぬくもりで語られる物語があることに気づかされた。
Entôのガラス窓は、移ろう季節を切り取る額縁のようだった。海も、雪も、船も、空も──すべてが、静かにそこに在るだけで、ひとつのアート作品のように見えた。

建築は、風景のなかに静かに身を沈め、私たちの足をそっと止めてくれる。まるで深く息を吸うことを思い出させるかのように。
Entôで出会ったのは、火山と雪、そしてまわりを囲む海が、何万年もの時をかけて形づくってきたこの土地の、奥深く重層的な地質と文化の物語だった。
壊れやすさと、永遠性。その相反するものが同居する島、隠岐。そんな場所が、今も私たちを静かに迎えてくれる。


Entô Diningでの一皿一皿は、この土地との静かな対話だった。
丁寧に盛られた料理は、まるで詩のようだった。
あるとき運ばれてきた料理は、金継ぎで直された器にそっと盛られていた。
壊れたあとも、誰かの手を経て、ふたたび使われているその器に、「美しさ」とは何かを問いかけられた気がした。壊れたからこそ、手をかけて直されたからこそ、そこに宿るぬくもりがある。
料理もまた、器もまた、この島で積み重ねられてきた時間の結晶なのかもしれない。

さえぎるものはなかった。雑音もなかった。
あるのは、潮の満ち引きと、光のゆるやかなリズムだけ。
私たちはただ、「今」という時間を生きていた。
そして島々は、想像できるすべてを、それ以上の豊かさを、惜しみなく私たちに与えてくれた。
