空を飛び、海を渡り、長い時間をかけてようやく辿り着くことのできる「遠島」隠岐。
決してアクセスの良い場所ではない。船に揺られ、長い道のりをじっくりと時間をかけて進む以外に辿りつく手段はない。
それでも、隠岐を訪れる人が後を絶たないのはなぜだろうか。
それはきっと、一見手間に思える長い旅路にこそ、新たな発見や楽しみが溢れているからかもしれない。波音に耳を傾け、船窓に広がる景色をぼんやり眺めるひととき。長い道のりが日々の喧騒を忘れさせ、気持ちを旅へと誘うのだ。
今回は、そんな知られざる道中の楽しみを伝えるべく、隠岐の島を訪れた3人のゲストに、隠岐への旅路や帰路で心に残ったエピソードを語ってもらった。
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道中の時間は、旅に重要な「余白」である
偶然同じ日にEntôに宿泊されていた建築家の竹内昌義さん(みかんぐみ)と、アクティビティの焚き火時間で出会った。互いに翌日がチェックアウトだったのだが、共通の知人が多かったこともあって、帰路のフェリーやバスの中、飛行機の待ち時間に色々と話し込み、それがご縁で、その数日後に竹内さんが長年携わっておられるという、岩手県の紫波町まで訪れることとなった。そこであらたな知見を得た僕はいまもなお、旅が続いているような心地でいる。
そもそも、Entô=縁島を感じていた僕は、今回の出来事がまさにその象徴だと思った。待ち時間や移動時間というのを、単なるロスタイムだと思うか、旅の重要な余白と思うかによって旅の豊かさは大きく変化する。
Entô=遠島を、Entô=縁島にするのは、旅人自身の心持ちだ。
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船上で知る、子どもとの旅の面白さ
子どもと二人での隠岐への旅は正直不安だった。子どもはただでさえ飽き性なのに、船に2時間以上も乗るなんて。
でも、それはまったくの杞憂だった。ふらふらと揺れる船内でバランスをとりながら歩くだけで大興奮。余っている枕を見つけて壁に見立て、持ってきたおもちゃの車で遊んだかと思えば、船外へ出て島を眺めたり、売店を散策してみたり……。
最後は事前に買ってきたおにぎりを頬張りながら、時たま窓にぶつかる波飛沫を見つめていたら、あっという間の乗船が終わった。遊ぶってこういうプリミティブなことなんだよなと、まだ3歳になったばかりの子どもを眺めながらその先に続く隠岐での旅に期待を弾ませるのであった。
子どもとの旅はつねに不安と緊張の連続で、親自身が心から楽しめる時間は少ないように思う。移動中にどうやって機嫌をとるか、旅先でいかに退屈しないように過ごそうかと考える時間が旅の前も途中も多くある。
だけど、実際に行ってみたら子どもなんて勝手に楽しいことを探してくれるし、その視点でしか見えない景色を教えてくれたりして、子どもとの旅だからこそ生まれた時間・体験が旅そのものを面白くしてくれるんだということを認識できた気がする。
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帰路の船上で旅を振り返る、かけがえのないひととき
島根県中央部の我が家から隠岐へのフェリーが出る七類港までは車で約1時間45分。朝一番のフェリーに乗るため、一家4人、車中で朝食を頬張りながら旅の楽しみに胸を膨らませた。
道中最も心が弾むのが、フェリーの乗降口が閉じて海原へと出る瞬間である。「これから旅に出るんだ」という気持ちがグッと高まる、船旅の醍醐味である。
何度か隠岐を訪れている子どもたちは慣れたもので、船が出たら颯爽とキッズルームへと駆け出していった。運悪く台風とバッティングしてしまい、船は時折大きく揺れた。船酔いしやすいので普段から寝転がるようにしているが、必ず一度は甲板に出て、青い海を切り裂いて進む爽快感を味わうことにしている。
島では台風による風雨で引きこもる時間が長かったが、かえって家族とゆっくり、海士町らしい過ごし方ができたと思う。
帰りも長旅だが、船窓を流れゆく波を眺めながら、旅を振り返る時間も好きだ。私にとっては13年前に初めて訪れて以来7度目の海士町。独身時代から現在は家族を連れて、ライフステージの変化によって刻まれる思い出も変わる。
そんなことを考えているうちに時は流れ、気づけば船は港に着いている。島そのものの魅力もさることながら、長時間も苦にならない船旅の楽しみが、私を何度もこの地へと誘うのかもしれない。
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隠岐への旅路をどのように過ごし、そこで何を感じるのか。
長い道のりだからこそ、目的地に向かう時間そのものが旅の物語の一部となる。
Entôを訪れる際は、ぜひ道中のひとときもゆっくりと味わってみてほしい。