隠岐の海に浮かぶ、ちいさな漁船。
船の先端から漁師が身を乗り出して、永く愛用しているであろう青色あせた箱メガネで海中をくまなく見渡している。視線の向こうに狙いを定め船よりも長い竿をぐいぐいと海底まで差し入れる。数分後、引き揚げた先には棘のある特徴的なサザエが2つ捕らわれていた。
まだすこし肌寒い4月のこと。
この島で暮らしはじめて、1年と8ヶ月が過ぎた。
今日37歳を迎えて、此処で出会うひと、時間、無骨でなにも語らぬ自然にさえ、偽りようのない感謝と愛着がうまれようとしている。
いつから 集落の長老たちに元気でいてほしいと願っていたのか
いつから 名も知らなかった草木の芽吹きを予測できるようになったんだろうか
一体いつから
ともに暮らし働く仲間たちの不恰好な人となりを愛せるようになっていたのか
記憶を辿ろうとしても、その境界線は水墨画の濃淡みたく曖昧で。
いつの間にか隣に佇んでいる誰かとそっと手を重ねるような感覚になる。
そんな曖昧に混ざりあい溶けてゆく島で、寄せてはかえす人の往来。
島に流れ着きしばらく漂う者もいれば、引き波で別の潮流へと身を委ねる者もいる。
この地で愛すべき人と出逢い新たに家族となったひとたち。ある人はゆらゆらと他所へ流れていったはずが思いがけず再会したり、野鳥のように季節をめぐり還ってくる。
わたしはというと、どうだろう。
自らの意思で辿り着き、少しずつこの土地に根が生えようとしている身体と心。
その機微に耳を澄ますのなら、もうしばらくは此処で漂っていたい気もする。
惹かれているものの正体は、はっきりしない。
けれどもぼんやりと分かりはじめている。
緑がかった海のそこはかとない美しさ
玄関先に名無しでいただく野菜のおすそわけ
すれ違う子どもたちの駆けていく後ろ姿
胸の奥をあたためるには充分なほどのささやかな煌めきが、暮らしのそこかしこに、こぼれ落ちているということ。そこには過剰な気遣いやわざとらしさはなく、ただいつも普遍の景色が広がっているだけ。
“ただそれだけ”の特別さを味わい育む島での暮らし。
「なにもない」という手掛かり
こんなにもわたしを惹きつける遠い遠い隠岐の島々。
それは旅人たちも同じで、便数の限られたフェリーに長時間揺られやっとの思いで島に降り立つ。
なぜ時間をかけて来てくれたのか。
何かを求めにきてくれたあなたは、探していたものは見つかっただろうか。
これから見つけようとしているあなたへ、わたしたちはなにを渡せるのだろう。
時間、自然、新しい出会いか。もしくは未知のモノゴト、日常のなかで忘れていた気持ちか。
「ここには何もない」と誰かが言う。続けて「だからよ。海も魚も人も、余計なもんがないぶんきらきらして見えっでしょ」と誇らしげに言い切った。
便利さとは恐らく対局にある不便といわれる環境。
都市と比較されがちだが、便利とは何を表すのか。
数百メートルおきに点在するコンビニのことだろうか。いつでも直ぐに移動できることだろうか。もしくは欲しいと思ったものがすべて手に入る状態だろうか。なんでも揃っていれば“豊か”で“幸せ”なんだろうか。
数年暮らした黒川温泉での生活が身体の末端まで染み付いて、それなりに快適だと思っていた福岡の街がとても窮屈で自分にとっては不要な情報で溢れかえっているように感じた。望まなくともほとんど手に入る暮らしを重ねるうち、遠くへ行ってみたくなったのは2021年初夏のこと。おかげさまで田舎にも山にも慣れていた。それでも離島だから当然不便であると多少は身構えて辿り着いた。人と自然と交わるうちにそのフィルターは剥がれてゆき、心地良い丁度良さを感じる。
いまになって思えば、余計な心配だった。
この島では在るもので事足りる、無いなりに在るものでなんとかするという気概や独自の精神を随所に感じる。足るを知るという言葉のリアルはもしかすると、こういうことなのかもしれない。そして必要なだけを守ることで島の人々の暮らしを守ることにも繋がると知った。だから余計なものはここには必要ない。いつしか自分自身も、この環境で無理なく生きられるように順応している気がして、時々勢いよく転んだり起き上がってまた歩きはじめる。
むかし習った人間の進化のような営みを生きている。
人が動く 島が息をする
ないものはなくていい。大切なものはすべてここにある。
この場所から生みだされる思考の整理や創造の結果、わたしの暮らす海士町では「ないものはない」というスローガンが2011年に誕生した。島中の人間がこの言葉の意味を知っている。
島に到着したら少しばかりゆったりと周辺を歩いてみてほしい。
港にある観光窓口の様子
商店のおばあちゃんの曲がった背中
初めて目にするかも知れない花の色
上空をひらめく雄大な鳶とカラスの交わり
この土地に文化をもたらした後鳥羽上皇やラフカディオ・ハーンが確かに存在した痕跡の数々
一歩また一歩、踏みしめる度に目にする全てはわたしたちの生活の一部。
決して特別ではない、飾り気のない日常。
こんなに遠い地へ時間をかけて辿り着いたあなたの人生の一瞬が、島で呼吸をはじめる。
あなたが降り立ったことに島が気付き、呼吸をはじめる。
人の往来こそがこの島の血液であるとわたしは感じている。
大きく空気を吸い込み、持ってきたすべてを身から剥がすように息を吐く。
忘れたいことや心をざらつかせる辛いこと。手放したければ、ここへ置いていくといい。
新しい気持ちや発見を、持ち帰りたければそっと抱いていくといい。
そこには誰からの承認も必要ない。
ただあなたが思うまま、あなたの大切なものが感じられればそれでいい。
もしもなにも感じなかったとしたら、季節を変えてふらり流れてくるといい。
混沌と整然が矛盾するように入り交じる、ちいさな島の大きな器。そこへすっぽりと思いきり身を預けてみると、自分の内側にあった火種や静かな強い意志に気付くかもしれない。何かを求めてやってきたひとは予期せぬ発見や違和感を持ち帰るかもしれない。けれど、それでいい。
そろそろまだ見ぬあなたに出会うだろうか。
またどこかで会えるだろうか。
そんな恋にも似た想いを、ここEntôで島の観光に携わるひとりとして今日も育んでいる。
― Text/Photo ―
白水 ゆみこ(しらみず ゆみこ)
福岡県出身。2017年〜2021年まで熊本・黒川温泉にある老舗旅館で仲居として働く。はじめて観光業に携わるなかで宿泊を通じた観光のその先を探しに2021年夏、飼い猫と海士町へ来島。Entôを運営する株式会社海士に入社。客室清掃や空間演出を担うクリンネスの現場を経て、現在はEntôDiningのマネジメントを担当。この島での暮らしを食と言葉で表現するひと。