旅人と交わる夏の断片

8月15日、台風が本土に上陸し隠岐の島々にも強い風が吹いた。
自宅から徒歩1分もかからない船着き場
いくつもある小型の漁船が左右に揺すられていて、まもなくやってくる荒々しい天候を予感させる。
時折吹き付ける風音に身体が反応してふと見上げると、上空には白波を模した群雲が朝陽に照らされていた。普段よりずっと早くダイナミックに流れ、肉眼にはターナーやジョンコンスタブルの風景画のように映る。
口を半開きにして空を仰ぎながら、随分と昔に発売された唄の歌詞を思い出す。
池の水にうつる空の色に、公園に暮らす水鳥たちが命を与えるという表現だった。
人間にはどうしたって創造できない自然がつくりだす景色に、思わず頭のなかでは彼女の音楽が流れはじめて、写真を撮らずにはいられなかった。

日常の愛おしさに触れる
隠岐島民の移動を支える隠岐汽船の運行状況は毎朝6時半に更新される。
案の定とでもいうべきか、この日は安全を考慮して高速船を含めたフェリーが全便欠航となり、発表と同時にフロントが少し慌ただしくなる。そのなかで前日に開催された地区の盆踊りのことを考えていた。昨年はなかった地域の催しに参加できてよかったと安堵がよぎる。
帰れないかもしれないという不安や困惑が当然ゲストの表情からは伺えたけれど、戸惑いながらも入れ代わり立ち代わり、皆が同じ空間で朝食を囲む光景に「生」を見た気がした。
窓の向こうでは、数時間後に欠航を決めた内航船どうぜん。早くも荒れはじめた内海を駆け足で何往復もしている。白いまるまるとした海鳥たちは何度も向かい風に吹かれて着水し、体力温存のためなのか暫く波に身体を預けていた。
翌日の帰路を探るゲストたち。中には潔くトラブルに見舞われながらも楽しもうとする人。なにかを考えながら窓の向こう側を見つめる人。島から出ることが困難になり多くのゲストは延泊を選択する。皆、予定通りならまもなく終えるはずだった隠岐の旅。この状況に冒険のような雰囲気さえ漂い、旅の第二章がひっそりとはじまっているように思えた。
臨時の手配や調整に追われ、働くわたしたちの1日はあっという間に過ぎていく。
翌朝にはフェリーが動き、物理的に外界と繋がる安心感を受け取ることになった。
フロントで見かけるゲストに声をかける。
「今日は帰れそうですね」
早朝のEntôDiningは前日とはすこし雰囲気が異なり、スタッフにもゲストにも互いを称えるような不思議な一体感がうまれていた。

旅人のまなざし
2019年時点で25%に満たなかった日本人のパスポート保有率。コロナ禍で更新されずに期限を迎えたのか、昨年には17%にまで下がったと聞いた。世界が羨むほど恵まれたパスポートを保有している人は案外少ないことに驚く。誰しもが、この数年は国内に留まり旅することも叶わなかったかもしれない。
行きたい場所へ行けること、外に出られる歓びを、あなたもそこで感じているだろうか。
真夏日のある日、海外から来島した家族。
はじめて海に入ったというその子は、Entôの脇にある海のことを「しょっぱい青い水」と言って、その時間がどんなに楽しかったか夕食の合間、料理を運ぶ度に教えてくれた。
時々サーブするスタッフにも家族にも夢中で話す様子に、今年まだ指先も触れていなかったわたしに羨ましいほど伝わってきた海の気持ちよさ。
生まれて初めて海に入った日のことを、わたしはもう覚えていない。
そこからすぐに仕事終わりの同僚を捕まえて、彼の泳いだレインボービーチに脚を浸す。
幼少の記憶こそ辿れなかったけれど仕事の合間に夏をわずかに感じるきっかけをもらった。
訪れる人々から勝手に受け取り続けている旅のおもしろさ
この島で見たもの
食べた料理のストーリー
話した人の表情やしぐさ
触れた草木の感触
しょっぱい青い水のこと、台風の滞在をおもしろがってくれた日のことも、いつか忘れてしまうかもしれない。儚くなにものにも代え難い彼らのまなざしを勝手に受け取って、なにかに昇華したい。
観光は、おもしろい。
未知数の観光のその先。
どんな枝葉がつくのか、もっと触れてみたいと願う離島暮らしは気付けば3年目が始まっている。
― Photo credits ―
Photographer:佐藤 奈菜(さとう なな)
北海道札幌市出身。アメリカで数年を過ごし、代表の青山と同郷であることなどからEntôや海士町に興味を抱き、帰国後2022年に移住。暮らしのなかで撮るふとした写真のセンスは社内でも群を抜く。現在はマーケティング事業とフロント業務を兼任。彼女にとって良きタイミングで髪色を変える習慣があり、最近は鮮やかなグリーンの短髪をなびかせている。
― Profile ―
白水 ゆみこ(しらみず ゆみこ)
福岡県出身。2017年〜2021年まで熊本・黒川温泉にある老舗旅館で仲居として働く。はじめて観光業に携わるなかで宿泊を通じた観光のその先を探しに2021年夏、飼い猫と海士町へ来島。Entôを運営する株式会社海士に入社。客室清掃や空間演出を担うクリンネス、食部門のダイニングを経て、現在は社内のマルチサポーターとして活動中。島での暮らしを、食と言葉で表現するひと。